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中央競馬

伝説の名馬達

馬名:トウカイテイオー

獲得賞金 6億2563万3500円
父 シンボリルドルフ
母 トウカイナチュラル
主な勝鞍
・皐月賞
・東京優駿(日本ダービー)
・ジャパンカップ
・有馬記念

幼駒時代には類まれな瞬発力で牧場の柵を飛び越えたというエピソードは有名。
通算12戦9勝、うちGI4勝という数字は、七冠馬と呼ばれた父シンボリルドルフにこそ及ばないものの、超一流の戦績。
新馬戦から無敵の6連勝で、皐月賞とダービーを制し、父ルドルフ同様無敗で3歳頂点を極めた。
そういった記録だけの馬かといえば、そうでないのが最たる魅力。
ダービー以降はたび重なる故障で長期休養ばかりだったが、そこから這い上がる姿が魅力的でもあった。
平成4年(1992)のジャパンカップがそう。骨折休養明けの天皇賞(秋)を7着敗退、“史上最強軍団”と評された外国勢の参戦で、単勝オッズは10倍の5番人気という評価。
そんな中彼は、豪州のダービー馬ナチュラリズムとの激闘を制して栄光を勝ち取る。
が、その翌月の有馬記念では11着と惨敗。
さらにまたもや骨折に見舞われターフに戻ったのが伝説となった翌年の有馬記念。
363日・・・前年の同レースから1年ぶりの実戦という極めて不利な状況のなか、それを微塵も感じさせぬ走りで、鮮やかな差し切り勝ち。ゴールの瞬間スタンドには大歓声が巻き起こっていた。
その走りは「皇帝」の仔「帝王」の名にふさわしいものだった。


馬名:テイエムオペラオー

獲得賞金 18億3518万9000円
父 オペラハウス
母 ワンスウエド
主な勝鞍
・天皇賞(春・秋)
・ジャパンカップ
・宝塚記念
・有馬記念

テイエムオペラオーは、セリ市で誰にも競られず一目惚れした竹園オーナーのスタート価格1000万円で購入された馬だった。
競走生活が終わってみれば、ずば抜けた「安定感」を持ち合わせていた馬だった。
というのも全競走生活において一度たりとも掲示板を外すことがなかったのである。
勝ち上がるのに手間取り、クラシックへの一次登録がなかった為、追加登録料を払ってまで出た皐月賞・・・
当然ながら人気は出ず、5番人気・・・
中団後方から最後の直線で追い込み勝ちきった。
皐月賞馬として二冠奪取を目指したダービーでは、1着から遅れること0秒3差の3着。菊花賞でも1着に0秒1差の2着。古馬の強豪と戦った有馬記念でも僅差の3着。
能力は間違いなくあるのに勝ちきるには何かが欠けているのか…。
ところが翌年には、8戦8勝(GⅠ5勝)のパーフェクトな成績を収め「勝ち切る」馬に変貌を遂げる。
天皇賞(春)も、宝塚記念も、ジャパンカップも、0秒1差以内での僅差勝ち、有馬記念に至っては、ハナ差の決着だった。前年とはうって変わって「きわどい勝負でも必ず勝つ馬」というイメージが不動のものになっていった。
また印象的なのは、ほとんどのGⅠレースでの接戦の相手がメイショウドトウだったということ。
天皇賞3連覇を含むG17勝という輝かしい結果があるにも関わらず、「最強馬」と呼ばれないのは圧勝がなかったからなのか・・・
しかし歴史的名馬の1頭であることは間違いない。

馬名:ウォッカ

獲得賞金 13億3356万5800円
父 タニノギムレット
母 タニノシスター
主な勝鞍
・天皇賞(秋)
・安田記念
・ヴィクトリアマイル
・ジャパンカップ

5大クラシック・・・ 3歳時の一生に一度しか出走できない大レースで、桜花賞、皐月賞、オークス、日本ダービー(東京優駿)、菊花賞のことを言う。
このうち桜花賞とオークスは牝馬しか出走できない。
一般的に牝馬は牡馬に比べて能力が劣るため、こうした限定レースが設けられている。
阪神ジュベナイルフィリーズを制し、2歳女王の座についたが、クラシック初戦の桜花賞で完敗。
オークスで雪辱をと誰もが思っていたが陣営が掲げたレースはなんとダービーだった。
牝馬の特権を捨てての無謀な挑戦だと思われていたが、角居調教師には確信があった。
調教段階で2歳の未完成馬ウオッカが、年上の大物デルタブルース(菊花賞)、ハットトリック(マイルチャンピオンシップ)に食らいつく動きを見せていたからだ。
そしてデビューするや3戦目の2歳牝馬GI、阪神ジュベナイルフィリーズを圧勝。1分33秒1という2歳芝1600mの日本レコードを叩き出していたのである。
この勝利で陣営は日本ダービーに挑戦する決意を固めたようだ。
そしてレース当日・・・
上がり3ハロン33.0秒という圧倒的なパフォーマンスで並み居る牡馬をなぎ倒した。
過去に牝馬が勝ったのは戦前までさかのぼってのヒサトモ(1937年)とクリフジ(1943年)のみ。
この2頭は環境に恵まれていた。戦前と戦後のしばらく日本ダービーは春に、オークスは秋に行われていたので牝馬は両レースに出走することができたのだ。
しかし、1953年から日本ダービーと同じ春にオークスが移行し、翌週が日本ダービーという日程となり、牝馬の挑戦がローテーション的に難しくなった。
このため牝馬の日本ダービー出走が激減。いつしか「牝馬は日本ダービーを勝てない」という考えが常識化していった。
堂々たる横綱相撲で牡馬をねじ伏せ、ウオッカが勝ち獲った2007年の日本ダービー。
それは常識が覆され、歴史が大きく動いた瞬間でもあった。


馬名:オグリキャップ

獲得賞金 9億1251万2000円
父 ダンシングキャップ
母 ホワイトナルビー
主な勝鞍
・有馬記念
・マイルチャンピオンシップ
・安田記念
・高松宮杯

地方競馬(笠松)所属で重賞を含む8連勝という地方通算12戦10勝の実績を掲げ中央競馬へと乗り込み、中央でも破竹の重賞6連勝を飾ったが最強の好敵手タマモクロスと出会い初の敗北を味わう。
その後も連敗するがタマモクロスの引退レースである有馬記念で雪辱を果たす。
5歳を迎えたオグリキャップは、絶望的な位置からバンブーメモリーを差し切ったマイルチャンピオンシップ、そこから常識無視の連闘で挑んだジャパンカップ、外国馬ホーリックスと同タイムの世界レコード(当時)決着でクビ差の2着と健闘。だが、その年6戦目の有馬記念で力尽きたオグリキャップは5着に敗れ、人気の絶頂にありながら年度代表馬のタイトルを取り逃す。
翌年、オグリキャップはたび重なる脚部不安に苛まれ、秋の天皇賞(6着)、ジャパンカップ(11着)と惨敗を喫す。「オグリは終わった」、そんな風評も聞こえてくるなか、4番人気で引退レースとなるレースを迎えた・・・。
第35回有馬記念。
「さあ頑張るぞ、オグリキャップ!」
実況の声に弾かれて、白い馬体が伸びた。絶望の淵から、オグリキャップは甦った。
そのゴールを先頭で駆け抜けたのはオグリキャップだった。奇跡とも思える勝利にファンは惜しみないコールを送った。
競走馬を引退した後は種牡馬となったが、産駒から重賞優勝馬を出すことができないまま種牡馬を引退。
そして・・・
永遠のアイドルホース、オグリキャップが逝った。
2010年7月3日午後、オグリキャップは北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで放牧中に転倒し、右後肢を骨折。病院へ緊急搬送されたが、手の施しようがない状態で、やむなく安楽死の措置が取られた。


馬名:ディープインパクト

獲得賞金 14億5455万1000円
父 サンデーサイレンス
母 ウインドインハーヘア
主な勝鞍
・皐月賞
・東京優駿(日本ダービー)
・菊花賞
・有馬記念

新馬戦で武豊を背に圧倒的1番人気でデビュー。
33秒1という驚異的な末脚で快勝。その走りを池江泰郎調教師は「宙に浮いているようだ」と言い、主戦騎手の武豊も「走っているというより飛んでいる感じ」と表現した。衝撃的なデビュー後、圧倒的強さで3連勝を決め、3冠を意識できる馬として圧倒的人気に支持されていくことになる。
クラシックの一冠目である皐月賞では、ゲート直後に躓き危うく落馬寸前となったが、何とか立て直し最後方からレースを進め、直線では武豊の初めてのムチに反応し全馬を追い抜き、圧勝で噂に違わぬ力の違いを見せ付けた。
ダービーでは、0.8秒差を付け文句なしの圧勝、レースレコードのおまけ付きで二冠を達成。
秋初戦となった神戸新聞杯(G2)でもレースレコードを更新する圧勝で勝利し、ラストタイトルの菊花賞に向け好発進を決めた。
最後の3冠目となった菊花賞では単勝支持率79.03%を記録し、史上最高支持率となり当然、単勝式は100円元返しとなる珍事が発生した。
レースでは、1週目の4コーナーで馬が勘違いしラストスパートをかけようとするが武豊が必死になだめて落ち着かせ、最後の直線でしぶとく粘るアドマイヤジャパンを一気に差し切り2馬身差をつけて完勝。
シンボリルドルフ以来、21年ぶり史上2頭目の無敗での三冠馬となった。
菊花賞後は、史上初となる無敗でのグランプリ制覇を目指し、古馬と初対決の有馬記念に出走したが、先行した同じサンデーサイレンス産駒のハーツクライを捉えきれず初の黒星(2着)を喫した。
古馬になると再び勢いに乗り、連戦連勝の王道を極め天皇賞(春)(G1)、宝塚記念(G1)、ジャパンC(G1)、有馬記念(G1)を制覇し7冠馬となった。 宝塚記念(G1)を勝った後にフランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞に遠征したが、豪脚はなりを潜め3着に敗れた上、風邪を引いた際に使用した薬が禁止薬物に指定(フランスでは)されていた(当時の日本では合法)ため失格となってしまった。
帰国後はジャパンC、有馬記念を完勝した後、ファンに惜しまれつつ種牡馬入りのため現役生活にピリオドを打った。
そして父となったディープインパクトは競馬界に再び大きなムーブメントを起こしている。
産駒が次から次へとG1を制覇し、毎年のようにクラシック戦線を賑わせている。
かつて日本の血統支配を席巻していた父サンデーサイレンスの背中を追ってさらなる高みへ飛躍しようとしている。

馬名:ナリタブライアン

獲得賞金 14億5455万1000円
父 ブライアンズタイム
母 パシフィカス
主な勝鞍
・朝日杯3歳ステークス
・東京優駿(日本ダービー)
・菊花賞
・有馬記念

バブルが弾け、不況の波が日本経済を覆いはじめた頃・・・
「シャドーロールの怪物」ナリタブライアンがストレスを発散させるかのように観衆の熱狂を生み出していた。
デビュー当時は凡走もあったが、シャドーロールを装着し、追い込みに磨きをかけてからは連戦連勝。
皐月賞は、レースレコードどころかコースレコードをも上回る1分59秒0をマーク、2着馬との着差は3馬身。ダービーも5馬身差の圧勝。迎えた菊花賞でも、ビワハヤヒデの持つコースレコードを破る3分04秒6でゴールした。
その時、後続は7馬身も後方を走っていたほどの独走。圧倒的な能力の違いを見せつけて、三冠制覇を成し遂げた。
続く有馬記念もヒシアマゾンやライスシャワーといった強豪を相手に3馬身差の完勝を決め、文句なしの年度代表馬となった。
比類なき強さを誇った彼は、人気、実力ともに頂点へと登りつめた。
・・・順風満帆だった競走生活に見えたが股関節の炎症による休養を余儀なくされ、カムバックしてからは満足な結果を出せず現役を引退。種牡馬生活に入ったがわずか2世代を残しただけで早逝。
後年は悲劇続きの最強3冠馬だった。

馬名:シンボリルドルフ

獲得賞金 6億8482万4200円
父 パーソロン
母 スイートルナ
主な勝ち鞍

・三冠
・天皇賞・春
・ジャパンカップ
・有馬記念

シンボリルドルフは1981年3月北海道門別シンボリ牧場で生まれた。父パーソロンはシンボリ牧場がアイルランドから輸入した種牡馬で、天皇賞馬メジロアサマ、ダービー馬サクラショウリ、オークス馬トウコウエルザ等、74年から3年間リーディングサイヤーに輝いている。
母スイートルナは競走成績こそ平凡であるが、その父スピードシンボリは七歳八歳で有馬記念を連覇し、ワシントンDCインターナショナル5着他海外遠征に果敢に挑戦した名馬である。
デビューは新潟の1000m戦。内にささりながらも完勝。
追ったところなしで完勝。結局3戦3勝で三歳戦を終える。

明けて四歳は弥生賞から始動。しかしここには強力なライバルが出走してきた。
同じく無敗街道を走っていたビゼンニシキである。
4歳緒戦は弥生賞(GⅢ)から始動。
目下のライバルは前走共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)を含む4戦4勝のビゼンニシキであるが、岡部騎手はビゼンニシキの主戦騎手でもあったため、どちらに騎乗するかを選ぶこととなった。
岡部騎手はビゼンニシキを管理する成宮調教師と縁が深く、馬主も猛烈にプッシュしてきたため、「岡部騎手はビゼンニシキに乗るのではないか」との見方が多かった。
・・・が、岡部騎手が選択したのはシンボリルドルフであった。
いや、岡部騎手曰く、「選択するとか迷うとかそういう次元じゃなかった。問題なくシンボリルドルフ。」とのこと。
ちなみにこの選択?に激怒したビゼンニシキの馬主は二度と岡部騎手に騎乗依頼をすることはなかった。
成宮師ともしばらく疎遠になったという。

シンボリルドルフとビゼンニシキは皐月賞で再度対戦。
シンボリルドルフが外斜行しビゼンニシキに馬体を接触しながらも1馬身1/4差をつけて勝った。
続くダービーはもはやライバルと言える馬は存在しなかった。
道中行きっぷりが悪く心配されたが、何事もなかったかのように直線を抜け出して、ビゼンニシキは距離の壁で14着と大敗した。

秋はセントライト記念(GⅢ)から始動。
このレースを4馬身差のコースレコードで圧勝。
余談ではあるが、このセントライト記念で2着に入り、皐月賞でも3着の実力を持つオンワードカメルンは菊花賞を回避。
この事からもシンボリルドルフの圧倒的な実力が窺い知れる。
ところが、ここで「シンボリルドルフ自身が菊花賞を回避する」という噂が流れたのである。
というのも、和田氏は前述の3歳時の逸話の通り、ジャパンカップというレースに相当いれ込んでおり、出来れば大目標であるジャパンカップに万全の状態で出走したいという思いがあった。
が、菊花賞に出走するとジャパンカップは中1週となり、さすがに万全の状態での出走は厳しい。
この世代、どの馬が最強かはだれがどう見ても明らか。
なら、わざわざ取れるのが明らかな三冠など無視して万全の状態でジャパンカップに出走すべきではないか、というのである。
しかし、周囲からの説得や、ファンの強い要望もあり、和田氏も「やはり三冠もとっておこう」と折れたのであった。
もしここでシンボリルドルフが菊花賞を回避していたら今の三冠の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
そして菊花賞では外から強襲したゴールドウェイを3/4馬身離し勝利。
アナウンサー杉本清氏による「大歓声だ京都競馬場!赤い大輪が薄曇りの京都競馬場に大きく咲いた!!」の名実況に彩られて、シンボリルドルフは史上初の無敗での牡馬クラシック三冠制覇を達成。
「不敗の三冠馬」の称号を手に入れたのである。
そして表彰式では、岡部幸雄騎手による三冠目を示す3本指が掲げられた。

菊花賞への出走により、当初の大目標であったジャパンカップの出否が注目されたが、やはり和田氏にこの大目標を回避するという考えはなく、中1週のローテーションでシンボリルドルフはジャパンカップへ出走。
前走の天皇賞(秋)を制した前年度牡馬クラシック三冠馬ミスターシービーとの史上初となる三冠馬同士の対決になった。
ミスターシービーは1番人気。
シンボリルドルフは中1週のローテーションに加え、下痢を発症していることから生涯最低の4番人気であった。
だがレースを制したのは三冠馬でも外国馬でもなく、逃げを得意とする宝塚記念覇者のカツラギエースだった。
シンボリルドルフは英国のベッドタイムも差し切れず3着。
こうしてシンボリルドルフの連勝記録は8連勝でストップし、初の敗戦を刻むことになってしまった。
次走の有馬記念では、逃げるカツラギエースを徹底マーク。
第3、4コーナーで一気に差を詰め、直線で先頭に立つとそのまま2馬身突き放してゴールイン。
カツラギエースにきっちりお返しをしてみせた。
表彰式では岡部幸雄騎手が4本指を掲げ、シンボリルドルフは史上初の4歳4冠を達成。
7戦6勝3着1回の成績で最優秀4歳牡馬、そして年度代表馬に選ばれることになった。

シンボリルドルフの5歳緒戦である日経賞(GⅡ)は今でも語り継がれている圧勝レースの1つである。
シンボリルドルフ、終始馬なり。岡部幸雄騎手、終始持ったまま。
その結果が4馬身差の圧勝である。もはや皇帝に敵はいなかった。

だが、それでも皇帝に立ち向かっていった馬がミスターシービーであった。
3度目の対決となる天皇賞(春)では、皇帝に勝利するためにこれまでの戦法を捨てた。
向こう正面からマクリ始め先頭に立ち、自身の菊花賞の再現を図ったのである。
だがシンボリルドルフはもう一頭の三冠馬の奇襲にも全く動じず、いつもと同じく好位から直線で他馬を差し切り、シンザンと並ぶ五冠制覇を難なく成し遂げた。

表彰式で岡部幸雄騎手は5本の指を掲げ、ミスターシービーはこの後脚部不安により休養。
そして夏に骨膜炎を発症し引退となり、3度あった三冠馬の対決は3度ともシンボリルドルフの先着という結果に終わった。

次走の宝塚記念は直前に左肩跛行を発症し出走取り消し。
ここを勝てば凱旋門賞遠征というプランもあったが、それは白紙となり、秋のGI戦線に向けて休養に入った。
次の目標は勝利すれば春秋連覇となる天皇賞(秋)だったが、調整の遅れからステップレースを使えず、天皇賞(春)から約半年振りのぶっつけ本番だった。
それに加えて府中2000mでは絶対不利の大外枠17番。
このシンボリルドルフ打倒の絶好条件にマイルの皇帝ニホンピロウイナーや前走毎日王冠を制したゴールドウェイ、同競走2着の古馬ウインザーノットらが名乗りを上げた。
だがレースはシンボリルドルフが好位から他馬を引き離し、天皇賞春秋連覇かと思われたが、外から1頭の馬が皇帝を強襲。
皇帝に対してまさかの差し切り勝ちという快挙を成し遂げたのは、当時準オープン馬のギャロップダイナだった。
今でこそ天皇賞(秋)を制し、翌年には安田記念制覇後に海外遠征も経験し、引退レースの有馬記念ではダイナガリバーの2着に入るという名馬として知られているが、当時のギャロップダイナは33戦7勝で、芝のレースで勝ったのは新馬戦のみ。
単勝8820円の数字が示す通り、「あっと驚くギャロップダイナ」であった。(シンボリルドルフを差し切って勝ったのはギャロップダイナだけであり、ビゼンニシキ・ミスターシービー・後述のミホシンザンが遂に成し得なかった事である。)

休み明けの緒戦であったとはいえ、まさかの敗北を喫してしまったシンボリルドルフだったが、次走のジャパンカップでは地方競馬代表のロッキータイガーとの日本所属馬ワンツーフィニッシュとなる六冠制覇。
ギャロップダイナは7着に敗れ、カツラギエースと同じくお返しをしてみせた。

表彰式では手綱から手を離し、五冠を掲げる手に指を1本置いて六冠目を指し示した。

現役時代は関係者によるエリート然とした待遇と醸し出す雰囲気、好位から抜け出す面白みのないレース運び、それにあまりにも強すぎたために、先輩三冠馬ミスターシービーに人気面で及ばなかった。
しかし無敗でクラシック三冠を制した上に、天皇賞、ジャパンカップ、2回の有馬記念とトップレベルの馬に用意されたレースにことごとく勝利して見せた。
故郷のシンボリ牧場で種牡馬となったルドルフは、初年度産駒からトウカイテイオーという超大物を輩出した。
その後は宝塚記念2着のアイルトンシンボリを出すなどしたが、全般的に気性難の産駒が多く大成できなかった。
結局、99年ツルマルツヨシによる京都大賞典が産駒最後の重賞勝ちとなった。
そして2004年種牡馬を引退。2011年10月4日未明、悠々自適の生活を送っていた千葉シンボリ牧場で他界した。享年30歳の大往生であった。
シンボリルドルフ以降、ナリタブライアン、ディープインパクトの三冠馬の他、数多の名馬が誕生しているが、引退後20数年を経た現在もその輝きはいささかも失われていない。
シンボリルドルフは間違いなく日本競馬史上に残る名馬である。


 

 

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