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馬道楽 厳選!

伝説の名馬達

馬名:ノースダンデー

馬道楽のメインパーソナリティを務めるダンデー君。
現役時代は重賞4勝と浦和競馬のレコードホルダー。
2歳時に鎌倉記念2着から平和に出走し見事に6番人気ながらギリギリの所で制する。
3歳の初戦からダービーまでは凡走が続き、陣営からは念願のダービーも出走できたし、重賞も取ったし仕上がりの早い子だからこれ以上の伸びしろもあまり無さそうだしこの馬はお役ごめんだね。と言われて放牧に出る。
放牧後に南関東の短距離を牽引する馬になるなど誰が想像した事か・・・
放牧後は7戦6勝、重賞2勝で浦和のレコードまで出してしまう快進撃!
JBCでは4着と交流重賞のさきたま杯ではスーニを鼻差まで追い込んでの3着!
もはや南関に敵無しの状態で当時の短距離界の王者フジノウェーブに世代交代か!?
とまで言わしめさせたが5歳以降は度重なる怪我で不調のまま引退となる。
主戦騎手の左海騎手いわく、下位クラスの馬みたいな馬体で見た目は全然走りそうにないんだけどコーナーリングが本当に上手でスピードがまったく落ちないから小回りの利く馬場では本当に強かった。
林調教師もこの馬からは本当に、改めて馬の可能性とかを教えて貰った。
2歳で終わったと思ったけど、こんなに走るなんて想像もしていなかったし、やっぱり馬は難しい。
安い馬でも1億稼げるんだぞと地方競馬で夢を見せてくれたそんな馬だった!


馬名:ブロードアピール

4歳9ヶ月というデビューが大きく遅れ、4歳上500万下がレース初出走。
すぐに素質を開花させ、芝レースで4連勝し、芝適性を証明することとなった。
(これらの好走が後のダート路線での活躍への転向が遅れた要因の一つ)
その後も芝重賞で好走を続け、初勝利以来ダート戦を使うことはなかった。
芝レースで凡走を繰り返した後、初勝利戦以来のダート戦となるオープン特別の栗東ステークスに出走。
牡馬を含めても最高斤量(57kg)で6番人気という低評価であったにもかかわらず、持ち味の鋭い追い込みでレコード勝ちを収めた。
しかしこの時点でも陣営はダート路線への変更をせず、4戦続けて芝のレースを使い続けたがいずれも勝利を収めることは出来なかった。
ブロードアピールの転機ともいえるのが、デビュー以来2戦2勝だったダート戦でもある根岸ステークスである。
出遅れて最後方からのスタートとなり、先頭が残り400メートルの標識を通過する直前まで最後方に位置していたが、そこから後に鬼脚と呼ばれる末脚を見せる。直線だけで7馬身以上離れ、更に残り200メートル標識通過時点で5馬身ほど離れた先頭を差し切り、2着に1 1/4差をつけて重賞2勝目を飾った。
遅咲きだった為、7、8歳になっても活躍を続け、芝・ダートを問わず、一線級のスプリンターとして活躍し続けた。


馬名:ツインターボ

平均400kg~420kg台、周りの馬より一回りも二回りも小さい馬体で目立っていた。
デビュー初戦から逃げの戦法をとり、競走馬生活を終えるまでただひたすら逃げ続けた、小さな逃亡者。
彼が一たび走れば笑いが沸き起こり、向こう正面に達する頃には地鳴りのような歓声に変わり、レースが終わる頃にはみんなすっかり忘れている。
何故か? ツインターボは、ゲートが開くと同時にロケットスタートを決め、近年の「スローペース症候群」など微塵も感じさせない破滅的な大逃げを打った末に、レース後半には故障発生にしか見えないような失速を見せ、最後は歩いているようにゴール板前を通過する・・・
勝ったレース以外では掲示板にすら載っていない。
が、展開がハマった時の勝ちっぷりは痛快そのものだった。
5歳時のオールカマー、有力馬がいずれも不安材料を抱えての出走で本命馬不在の混戦。
お互いの陣営が牽制しあっている中、ツインターボはいつも通り、全力の大逃げで着々とリードを稼ぎ、3コーナー辺りでそれはセーフティーリードに・・・
後続の騎手たちが異変に気付いた頃には時すでに遅し、ゆうゆうとゴールに駆け込んだ。
ツインターボの魅力とは何なのか。
儚い大逃げと相反するかのようなその直後の急激な失速、それがツインターボの競馬であり、勝ち負けを競うだけではない。計算などなく、破滅的なペースで加速していく。
「最後はバテて歩くだろう」と考えて実力馬が控えたそこがツインターボの一人舞台。
笑いものにされていた馬がマンガの世界のように勝ち上がる、そんなサクセスストーリーを夢見て「何回玉砕しても次は逃げ切るんじゃないか」という部分に虜にされた人が多いのではないだろうか。


馬名:ハルウララ

113戦 0勝

父ニッポーテイオー母ヒロイン母父ラッキーソブリンという血統。
実は、血統はそんなに悪く無い馬である。

生まれた時から小さく、見栄えも悪かったハルウララ。
要するに売れ残ってしまい、生まれた牧場の場長は仕方なく自分で所有し、高知競馬で走らせることにした。
高知競馬を選んだのは、預託料が日本一安かったからである。
預かった調教師は、牧場長への義理を立てるためだけに彼女を預かった。
ハルウララは馬体が400kgに達しない小さな馬で、しかも臆病でわがまま。
飽きっぽいという、競走馬としてはおよそ失格な馬であった。
厩舎では相当な苦労をして彼女をどうにか競走馬としてデビューさせる事には成功した。
1998年11月のデビュー戦は最下位。
いわゆる連敗街道の幕が上がる。
ハルウララは非常に丈夫な馬であった。
出走回数は年間約20回に及び、出走手当ての合計がどうにか預託料と釣り合ったがために、ハルウララはなんとか廃馬の危機を免れた。
それにしても年間20走とは、足元に負担が少ないダートコース短距離だということを鑑みても物凄い出走回数である。
間に惜しい二着こそあるものの、ハルウララは兎に角負け続けた。
2003年。ハルウララももう7歳。
流石に好走する事さえ無くなってきて、いい加減引退かなぁ関係者が思い始めた頃の事。
突然彼女にスポットライトが当り始める。
高知競馬の実況を担当していた橋口浩二アナウンサーが、連敗がもうすぐ100に達しつつあったハルウララに気が付いた。
その話を橋口アナから聞いた地元の新聞が面白そうだと特集を組む。
そして廃止の危機に直面していた高知競馬関係者がこれに目をつけ、中央マスコミに売り込みをかけたのである。
これに応じた各マスコミが「負け組の星」という扱いで大々的に取り上げ、いわゆる「ハルウララ狂想曲」が始まったのであった。
先日までは地元のおっちゃんたちしかおらず、新聞記者など来た事も無かった高知競馬場に、なんだか物凄い数の人々とマスコミが押し寄せたのである。
目当ては、もはや勝つ見込みも無くなった7歳の牝馬。
客観的に見ると奇妙極まりない事に、彼ら彼女らは、ハルウララが負けるところを見に来ていたのである。
100連敗達成時には5000人もの観客が詰めかけ、120人ものマスコミが押し寄せ、何故か「100連敗を祝う」セレモニーまで行われた。
グッズが次々と作られ「当らない」交通安全のお守りとして外れ馬券が持ち帰られる始末。
高知競馬はかつて無いほど盛り上がる。
当然出走するレースもピーク時には全国発売が行われるなどケタ違いの売上を記録。
当時「あと一回赤字を出せば即廃止」とされていた危機は一時的にせよ回避された。
後日談ながら、このときに得た黒字の一部は経営のための基金にプールされ、案の定ブームが去って元の高知競馬に戻ると、超緊縮財政でもなお赤字が生じた際に、この基金を取り崩して赤字を穴埋めするギリギリの攻防の末存続し続けた。
この延命策が、のちの「夜さ恋ナイター」開始にはじまる高知競馬の一発逆転劇に繋がったのであった。
ハルウララはいなくなっても結果的に高知競馬を救ったといっても過言ではない。

引退後は千葉の牧場で余生を過ごしてるの事だ

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