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地方競馬

伝説の名馬達

馬名:フリオーソ

獲得賞金 8億4544万6000円
父 ブライアンズタイム
母 ファーザ
主な勝鞍
・ジャパンDダービー
・帝王賞
・柏記念
・川崎記念

船橋でデビューして2連勝後に平和賞に出走して2着に敗戦。
公営G1である全日本2歳優駿にあまり期待されぬまま出走して5番人気に推された。
結果は・・・2着の1番人気馬トロピカルライトに2馬身差つけて勝利するも、この段階でフリオーソは7年連続の表彰馬になり4年連続のNRA代表の大名馬になるなど誰もが予想しなかっただろう。
3歳になり、地方最強の二歳馬の肩書きを手に入れて中央の芝のレースに殴りこんだ。
結果は共同通信杯7着、スプリングS11着と見事に撃沈される。
しかし、此処から彼の伝説が始まるのであった。
ジャパンDダービか制すると、JBCクラシックと東京大賞典ではヴァーミリアンの2着。
この年の年度代表場に選出される。
4歳になるとダイオライト記念を制したのちに地方競馬の大一番、帝王賞に出走し見事に勝利を収める。
秋以降は中央の代表格であるヴァーミリアンやサクセスブロッケンに煮え湯を飲まされ、JBCクラシック4着、ジャパンカップダートは7着に終わったのであった。
翌年の5歳はダイオライト記念を二連覇したのみで、やはり中央の壁は厚くヴァーミリアンやスマートファルコンに惨敗する。
そして・・・6歳になり地方競馬最強場としての伝説の幕開けとなる。
川崎記念、柏記念、JBCクラシック、東京大賞典の公営のG1レースにすべて2着。
この時の勝ち馬がスマートファルコン、ヴァーミリアン、エスポワールシチーと中央の最優秀ダート馬たちを相手に互角の戦いをし、帝王賞ではカネヒキリを破り見事に勝利を収める。
この年の年度代表馬なのは言うまでもない。
7歳になり、初戦の川崎記念で単勝1.0倍の記録を作る!!
レースは圧勝!もはや、地方最強の名は揺ぎ無いものになり中央のG1フェブラリーステークスに挑戦。
後に伝説になる、奇跡の追い込みを見せたレースで2着に敗れはしたものの、多くの人に感動を与えた。
その後は柏記念を制し、脚部不安でこの年は休養する。
8歳になっても衰えしらずで柏記念でも1番人気での2着。
ラストランは東京大賞典で引退。
公営を7年も牽引してきて4回も年度代表馬。
絶対政権を長きに渡って築き、地方競馬の砦として中央のトップクラスと常に戦い続け、此処までの記録を出したのはフリオーソしかいない。


馬名:アジュディミツオー

父 アジュディケーティング
母 オリミツキネン
獲得賞金 5億9640万3000円
主な勝鞍
・東京ダービー
・東京大賞典
・川崎記念
・かしわ記念

アジュディミツオーのGI・5勝、通算獲得賞金5億9640万3000円(ドバイワールドカップでの1230万3000円も含む)は、フリオーソ、アブクマポーロ次いで3位。
地方所属馬として史上初の海外遠征も果たした(05年ドバイワールドカップGI・6着)。
NARグランプリでは、05、06年に年度代表馬のタイトルを受賞。
東京大賞典でGI初制覇を果たした3歳時の04年にも年度代表馬の候補となったが、この年は中央のクラシック戦線を盛り上げ、ジャパンカップGIでも2着と好走したコスモバルクが年度代表馬のタイトルを獲得。
ちなみにコスモバルクがシンガポール航空国際カップGIを制した06年は、GI・3勝を挙げたアジュディミツオーに軍配が上がっている。
コスモバルクとは年度代表馬のタイトルで何度か激しい争いとなったが、活躍の舞台がダート、芝とはっきり分かれていて、同期にもかかわらずレースでは一度も一緒に走ることがなかった。
2006年の帝王賞はカネヒキリとの名勝負。
この年のTKCベストレース25で第1位となる。
実況を担当した及川暁の「勝ちたい内田、負けられない武豊」に示されるように激しいもので、最後はアジュディミツオーが「2段ロケット」と実況に称された二の脚を使って制し、2分2秒1のコースレコードで優勝した。


馬名:アブクマポーロ

父 クリスタルグリッターズ
母 バンシューウェー
獲得賞金 8億2009万円
・主な勝鞍
・川崎記念
・東京大賞典
・帝王賞
・東海ウィンターステークス
・大井記念

デビューは遅咲きで1995年の5月になった。
彼の同期である馬はコンサートボーイやヒカリルーファスといったメンツで彼らがすでに活躍している頃にようやくデビューとなったのである。
デビュー戦を圧勝。その後は掲示板は外さない程度に勝ち負けを繰り返し、4歳(以下、旧馬齢表記)時は10月までに8戦して3勝。
その後ゆっくり休養となり、5歳の6月に復帰し復帰戦を快勝すると当時開業したばかりの出川厩舎へ転厩。これが、アブクマ伝説の始まりとなる。

転厩後勝利を重ね始め、5連勝。重賞の大井記念も軽量ながら勝ち切り6連勝。
満を持して帝王賞へ向かうが、南関東のエース格・同世代のコンサートボーイとの叩き合いにクビ差敗れて連勝は止まった。
しかし中央勢は負かしており、地方の競馬の新たな大物が現ると話題になった。
なぜか芝の中央のオールカマーに臨むがメジロドーベルに敗れ8着。
中央再挑戦として中京のダート重賞東海ウインターステークスに参戦。追い込む形になったがここは勝利!
意気揚々と東京大賞典に臨むが当時はまだ距離が2800mとステイヤーが強いレースであり、中央のトーヨーシアトル、キョウトシチーに敗れ3着。
そして翌年・・・彼はもうもう止まらない。
川崎記念・ダイオライト記念・マイルグランプリ・かしわ記念を圧勝。
帝王賞でも川崎記念の借りを返すべく岩手からやってきたメイセイオペラ、北関東のブライアンズロマン、中央のバトルラインらを打ち破り王座に君臨。
秋もNTV盃を圧勝すると一路岩手のマイルチャンピオンシップ南部杯へ向かうが、地元のエースとしてメイセイオペラもプライドをかけて挑みかかり、その前に3着に敗れる。
のちに語り継がれた逸話だと北へ向かった馬運車とオーロパークの広々とした風景を見て放牧と勘違いしたため気が抜けていたとも言われるが定かではない。
地元に帰るとグランドチャンピオンを圧勝。2000mに短縮された東京大賞典でもメイセイオペラやコンサートボーイを問題にせず。
もはや凄まじいの一語である。誰もが絶対王者座に就いたと皆が思った。

8歳になっても進化は止まらず川崎記念を圧勝。
ちなみにライバルのメイセイオペラはここではなく、得意条件のマイルのGⅠフェブラリーステークスへ向かい地方馬のまま中央GⅠを制覇する大快挙を成し遂げたが川崎記念選ばないとはメイセイオペラは逃げ出したな!という声も一部であったとか。
逆にアブクマがメイセイや中央競馬に怖気付いたという声もあった。
なんにせよ、この二頭がダート戦線の絶対エースであり、当時中央勢はいいとこ添え物にしかなれない空気だったのである。
ドバイワールドカップに行ってくれ!という声も聞こえ始めたが、当時は地方馬にドバイへ行くための蓄積もないし無茶な話であった。
メイセイオペラらとの名勝負数え歌が期待されたが…厩舎で脚を引っ掛けて捻挫。放牧となってしまう。
これで何かが切れてしまったのか、帰厩するが復帰は出来ず引退。種牡馬入りした。

種牡馬としては失敗で、現在は乗馬クラブで乗馬として、GⅠ馬の背中を素人に伝える余生を送っている。
通算32戦23勝。当時としてはかなり高齢ではあったが、年をとっても衰えるどころか強くなり続けていた印象すらあったので、早い引退であると言いたくなってしまう。もったいない。


馬名:ロジータ

父 ミルジョージ
母 メロウマダング
獲得賞金 2億1420万円
主な勝鞍
・東京大賞典
・東京ダービー
・羽田盃
・東京王冠賞
・桜花賞
・京浜盃
・ニューイヤーカップ

1988年に3歳(当時)でデビューし、この年は4戦2勝。
翌1989年、年明けからニューイヤーカップ・京浜盃・桜花賞と重賞を3連勝し、陣営は牝馬路線ではなく、牡馬の三冠路線に駒を進めることとした。
ロジータはその期待に応えて羽田盃、東京ダービーをいずれも楽勝して二冠を達成。
初の古馬との対戦となった報知オールスターカップでは2着に甘んずるものの、この時点で南関東最強クラスの1頭と数えられるようになった。
秋シーズンは初戦に当時の数少ない中央・地方交流競走であるオールカマーを選び、5着と敗れるものの地方馬最先着となり(勝ったのはオグリキャップ)、当時の規程により第9回ジャパンカップの出走権を獲得。
地元に戻って東京王冠賞を勝って南関東三冠を達成。
ジャパンカップではホーリックスの15着と大敗するが、次走東京大賞典で並み居る古馬を相手に馬なりで、圧勝し、南関東最強と呼ばれるようになる。
この時点でもう実力は出し尽くしたと判断されたのかまもなく引退が決定され、地元川崎の川崎記念を引退レースに選ぶ。
川崎記念では単勝1.0倍、2番人気以下は全て万馬券と言う圧倒的な支持を受け、当時の川崎競馬場のレコードとなる超満員の観客が見守る中を8馬身差の圧勝。引退の花道を飾った。
この入場人員のレコードは、その後ホクトベガの日本ラストランとなる川崎記念まで破られる事が無かった。
ロジータは非常に後肢の力が強く、馬房で暴れた際には天井の板を蹴破って壊したこともあった。
現在も福島厩舎のロジータのいた馬房にはその跡が残っているロジータは繁殖成績も優秀で、子孫に重賞連対馬を多く輩出している。
代表産駒には、イブキガバメント(朝日杯チャレンジカップ・鳴尾記念)カネツフルーヴ(帝王賞・川崎記念)他にもシスターソノが繁殖としてレギュラーメンバー(JBCクラシック・川崎記念)を産んで川崎記念を、自身、子のカネツフルーヴ、孫のレギュラーメンバーの3世代で制している。


馬名:メイセイオペラ

父 グランドオペラ
母 テラミス
獲得賞金 4億9498万5000円
主な勝鞍
・東北ダービー
・マーキュリーカップ
・みちのく大賞典
・マイルチャンピオンシップ南部杯
・フェブラリーステークス
・帝王賞

メイセイオペラは、地方所属馬として初めてJRAのGI 制覇を成し遂げた、みちのくの英雄である。
かつて43戦39勝をあげて“岩手の怪物”と畏れられたトウケイニセイと入れ替わるようにデビューを果たすと、連戦連勝で瞬く間に地元の期待を集めるようになった。
生まれた当初は体も小さく、競走馬になれるのかすらも危ぶまれていたが夜間放牧を試してみたところ、馬体が格段良くなり中央競馬に入厩する事も視野に入れられる程であったがこの事を聴き付けた佐々木修一は「育成なら水沢でもできます」「まずは水沢で走らせて下さい」と、半分懇願する形で、育成が終っていないオペラを強引に入厩させた。
そして5歳時のマイルチャンピオンシップ南部杯で待望のGI 初優勝。
当時、最強の名をほしいままにしていた船橋のアブクマポーロとJRAの実力馬タイキシャーロックを下して掴んだ栄冠は、平成9年の統一グレード制定後、初めて岩手にもたらされたGI タイトルとなった。
東京大賞典でもアブクマポーロの2着に食い込むと、その名はダート路線に高く鳴り響いたのだった。
そして迎えた平成11年のフェブラリーS。アブクマポーロが川崎記念に向かったことで両雄の激突は実現しなかったが、得意のマイル戦でメイセイオペラは、中央勢15騎を相手に堂々2番人気の支持を獲得。
パートナーの菅原勲騎手を背に落ち着いたレースぶりを披露すると、直線、逃げる桜花賞馬キョウエイマーチを交わして先頭に立ち、後続の追撃もピシャリと封じて栄光のゴールへ飛び込んだ。
レース後にはスタンドのどこからともなく、勝者を讃える「イサオ」コールが湧き起こった。
現在に至るまでJRAのGIを制した地方所属馬はメイセイオペラただ1頭しかいない。
引退後はレックススタッドで種牡馬入り。初年度こそ84頭に種付けする人気を集めたが、年々種付け頭数が減少し、5年目には一桁にまで落ち込む。しかし韓国に輸出された産駒は全頭勝ち上がるという好成績から、韓国の生産者からの熱烈な要望があり、3年間の期間限定(後に期間を延長)を条件に2006年8月に韓国への輸出が決定された。 韓国では2010年に初年度産駒がデビューし、ファーストシーズンサイアーランキングで3位となった。
漫画ウイニング・チケットの登場馬のミカヅキオーの父がメイセイオペラである。
ミカヅキオーの全弟は韓国に輸出される(最後の)直前のメイセイオペラ産駒の為にセリ価格が高騰し1億5000万円という高額で落札となった。

馬名:フジノウェーブ

父 ブラックタイアフェアー
母 インキュラブルロマンティック
獲得賞金 3億7770万6000円
主な勝鞍
・JBCスプリント(交流G1)
・東京盃(交流G2)
・東京スプリング盃(南関東重賞・4連覇)
・東京シティ盃
・マイルグランプリ

デビューは、2004年の笠松競馬場。
え?笠松??ちょっと待った、フジノウェーブって南関東の馬じゃ……と思った方。
実はフジノウェーブが本格的に南関東で走り始めたのは笠松所属で出走した3歳の黒潮盃のあとに高橋三郎厩舎に移籍してからなのである。

笠松時代は8戦2勝とかなり地味な結果しか残していなかった。
とは言え、中央競馬にも参戦して人気薄で3着に突っ込んでいるなど実力の片鱗は見せていたのである。

その後、南関東に移籍したフジノウェーブは移籍後すぐに3連勝したものの、そのあとは連敗するなど、地方競馬の中でもまだイマイチパッとしない馬であった。
そんな時に出会ったのが御神本訓史騎手であった。
御神本騎手とコンビを組んだフジノウェーブは初戦こそ2着に敗れたものの、そのあと2006年5月からおよそ1年の間負け知らずの10連勝を決め、勢いに乗って交流重賞に挑んだ……のだが、そこには中央馬という壁があった。
初めて挑んだ交流重賞のさきたま杯(G3)は3番人気に推されていたが、メイショウバトラーの4着に敗れた。
さらに、続く帝王賞(G1)では、距離の壁か同期のボンネビルレコードの11着。
と、ここまではよくある話なのだが、この後さらにフジノウェーブは自身に関係のないところで、大目標としていたJBCスプリントにぶっつけで出走することとなる。

2007年は日本競馬界を震撼するある騒動が発生していた。
それは馬インフルエンザであり、この影響で中央競馬や一部の地方競馬が中止になったり、競走馬の輸送に影響が出ていた。
誤解を与えないように言っておくと、フジノウェーブは馬インフルエンザにかかっていたわけではない。
ところが、大井競馬場で馬インフルエンザが発生したため、移動制限が出ており、その影響でフジノウェーブは帰厩が遅れてしまったのである。
しかし、そのような障害があったにもかかわらず、フジノウェーブは激走し地方馬初(そして現在も唯一)のJBCスプリント制覇を果たしたのである。
フジノウェーブが勝ったのはJBCスプリントであったが、現在もJBCクラシック・JBCレディスクラシックを勝った馬はいないため、JBC全体を見ても、地方馬で優勝したのはフジノウェーブだけなのである。

JBCスプリントを制したフジノウェーブであったが、その後はなかなか勝てなくなり2008年の東京盃と2009年の東京シティ盃で勝ち星を挙げるものの、その後は苦しむこととなった。

そして、2010年を迎えた。
この年の始動戦に船橋記念に出走し2着に入ったあと、1勝を挟み東京スプリング盃に出走した。
この東京スプリング盃は、同年から行われる交流重賞東京スプリントのステップレースとして開催されることとなった。

この両重賞にはそれぞれ前身があり、東京スプリントが東京シティ盃、そして東京スプリング盃がスプリングカップというレースであった。
そして、フジノウェーブは2010年以降、2013年まで東京スプリング盃で4連覇すると言うとんでもない記録を打ち立てたのである。

1年で1回開催される同一重賞を4連覇というのはそうそうできる記録ではない、というよりかなり達成するのは厳しく、中央競馬で達成した馬はいない。

2013年8月28日に行われた南関東重賞・アフター5スター賞で13着に惨敗。
さらに同レース中に右前第一指節種子骨剥離骨折及び種子骨靭帯炎を発症したため、引退となった。
引退後は同期のボンネビルレコードらとともに大井競馬場で誘導馬として活動をする予定とのこと。
また、骨折が癒えたのちに、年末には引退式も行われると、大井競馬場の公式が発表した……のだが。

10月23日、去勢手術を行った際に、麻酔が切れてから立ち上がろうとして転倒し、左脛骨開放骨折を発症し、安楽死の処置がとられた。
この突然の死には高橋調教師や御神本騎手、またボンネビルレコードに続く、地元のスター誘導馬として期待していた大井競馬場関係者もショックを受けた。

そして、2014年2月26日に開催される予定の第5回東京スプリングから、同レースを「フジノウェーブ記念」と改称し行われる予定であると発表された。
大井競馬で競走馬の冠名がつくレースとしては実行されれば、ハイセイコー記念に続いて2例目になると思われる。
(同じ南関東の川崎競馬ではロジータ記念、ホクトベガメモリアル・スパーキングレディーカップがある)

 

 

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